昔は話題にもならなかった叱責も今は立派なパワーハラスメントになり、理由の如何を問わず非難される。
とは言っても、昔はSNSが無かったから表に出てこなかっただけで、理不尽な叱責が苦痛なのは今も昔も変わらない。
そう考えると、昭和~平成初期のパワハラ全盛時代を生き抜いてきた私でもいい時代になったと感じる。
パワーハラスメントの問題点
改めてパワハラの問題点を整理してみよう。
昔は、「仕事を指導するにはある程度の厳しさが必要」というのは社会人であれば多かれ少なかれ持っていた認識だったと思う。
「指導のため」「安全のため」には厳しい口調はある程度容認される、という認識だ。
今でも建築現場あたりでは、頭をはたく(叩く)とか蹴るといった体罰をする職人もいると聞く。
建築現場は高所作業や重量物、切断工具を扱うことから、危険な職場であり、致命的な事故は取り返しがつかない。
それ故、厳しい口調やある程度の体罰は「安全のための指導」という建前になりやすい。
問題はそれが「心からの指導のため」なのか「機嫌の悪さを晴らしたいだけ」なのか、表面上区別が付かないことだ。
全ての指導者、管理職、職長が人格者なら「指導のための体罰」はうまく作用するだろう。
しかし「指導」か「憂さ晴らし」の線引きは曖昧で、指導が次第に熱くなって感情的になる、といった、”指導”に乗っかって憂さも晴らしているようなケースも少なくない。
かつては「○○さんは厳しい人だから」「△△部長はタフ(厳しい)だから気をつけろよ」みたいに、今では100%パワハラ認定受けるような言動でも、指導のため、安全のためにはある程度容認されていた。
確かに、中には人格否定を含んだ厳しい叱責はするものの、部下の成長を心から望んでいるが故の指導を行う人格者もいたが、問題は指導するための叱責なのか、自分の憂さを晴らすための叱責なのか区別が付かないところだろう。
こういったボーダーライン的なところを、管理職の立場を利用して必要以上な叱責をする人が昔は多かったように思う。
指導のための叱責と、嫌がらせのための叱責は完全に区別できない
結局のところ、指導のための厳しい叱責と嫌がらせのための叱責を明確に区別することは難しい。
部下:すみません…
上司:△月までに完了しなかったら検収上がらないだろうが!!お前、何考えてんの?
部下:…(汗)
上司:お前の頭は○○で出来てんのか!? ったく、この給料泥棒が!
3行目まではギリ許せると思うが、5行目の言動は今の時代は完全にアウトだろう。
3行目で踏みとどまってきちんと指導できればいいのだが、頭に血が上って感情的になってしまうと、日々部下に対して不満に思っていることが暴言として出てしまう。
こういったことをきちんと使い分け出来る人ならいいのだが、そういった人格者はそう多くない。
イジリとイジメは線引きできない
どこまでがイジりでどこからがイジメなのか?
これは線引きが難しい。というか線引き出来ない。
なぜなら、イジられるほうが「イジメ」だと思えばそれはイジメになるからだ。
そしてそれは人によって受け止め方が異なる。
時々会社でも、ライトなイジりだけど、事ある毎に同じネタでイジる人がいる。
本人が気にしておらず、それを笑いに変える度量があればいいが、それは人によって受け止め方は異なる。
芸人の場合、彼らはイジって=イジられて笑いになれば、それが自分の人気に繋がって収入になる。
だからイジるほうもイジられるほうも経済的メリットがある。
しかし我々のような笑いを生業としていない一般社会人は、同じネタで何度もイジるのは今の時代は御法度だ。
イジられるほうは、最初はいいが何度も周同じネタでイジられると周囲も飽きてくるだろう。そうなると本人的にはイジられるメリットが無くなる。
中には最初のイジりすら不快に感じる人もいるだろう。
そうなると、人によってはそのイジりが憎悪に向かってしまうことが往々にしてあり得る。
パワハラを自覚している人は思考を変えてみよう
個人的に、パワハラな人は2種類いると考えている。
b) 他人に厳しく自分にも厳しい
aは論外だが、bな人は結構いる。
いわゆる「昔気質」な人だ。
昭和の時代に、上司や先輩に叱られて管理職になったような人は、自分がそうして育ってきた影響もあって「他人に厳しく、自分に厳しい」人も多い。
しかし今の時代、厳しく指導するとすぐにパワハラ認定されて、内部通報されるのがオチだ。
そうなると「自分に厳しく」しても、自分が苦しくなるだけだろう。
人格否定せず、丁寧に丁寧に指導したところで、育つには以前よりも時間がかかる。
そんなジレンマにイライラすると、余計パワハラに走ってしまいそうになるだろう。
そういうときは、思考を少し変えてみるのがよい。
もう少し緩く生きればいいのだ。
今の若者に厳しくしても仕方がない。
出来ない人間を優しく優しく育てるのもいいけど、限度がある。
「出来ない人間は出来ない」と早めに見切り、その人に出来ること、出来るラインを見極めて仕事をアサインする。
その範囲で達成できる自身の目標を設定するように考えを変えるべきだろう。
出来ない部下にそれ以上の成果を求めて、しかもその達成目標の成果を積み上げて自身の目標にしてしまうのは、達成できない目標を立てているだけだ。
それでは部下も辛いし自分も辛いだけだし、そういったネガティブなストレスは粉飾報告に繋がり、架空売上、粉飾決算の温床となる。
部下、自分、会社、株主、誰の得にもならない。
「他人に厳しく自分にも厳しく」を改め、「他人に優しく自分に優しく」にマインドを変えれば、世の中もっと過ごしやすくなる。
コンビニの店員の態度が多少悪くても「そんなもの」と思えば腹も立たないだろう。
コンビニの店員に「良い接客態度」「良い笑顔」を求めてしまうのは、「商売とは○○であるべき」というステレオタイプなイメージを持っているからだ。
と思ってしまうのだろう。
あなたが会社でどんな商品を売っているのかわからないが、1台数十万円の機械の商談と、1回数百円の買い物では接客態度に違いがあって当然だ。
いちいち細かい態度に目くじらをたてず「そんなものか」と思えば腹も立たない。
そういった緩さを受け入れる代わりに「自分に優しく」する。
「仕事は○○するべき」といったストイックさを自分に課すことを止めればいい。
私は、新人の頃から飲み会で上司にお酌もしない、大皿を取り分けたりもしない、いわゆる「気が利かない社員」だった。
その代わり、女性の同僚が気を利かせてお酌したり料理を取り分けることを強制も期待もしなかった。飲みたい人がオーダーすればいいし、食べたい人が自分で取ればいい、という考え方だ。
「他人に優しく自分に優しく」は、言い換えれば
である。
アメリカのスーパーやコンビニ(グロサリーストア)の店員の態度は、日本から行くときっと驚くだろう。
「いらっしゃませ」なんて言うはずもなく、ガムを噛みながら商品のバーコードを通して、合計金額を表示したディスプレイを顎で示す。
彼らは貰っている給料以上の仕事はしない。スマイルは0円ではない。
客が不快に思うかどうかなんて考えない。自分が利用したときも同じような接客に遭うが「買いたい物を購入する」という目的は達成できているのだから文句は言わない。
話を戻そう。
つまり他人に厳しくしてしまうのは、自分に厳しく、しかも自分はその厳しさを受け入れているのに、なぜあなたにはそれができないのか、という傲慢さの裏返しである。
今までの日本は、自分や他人に厳しくして社会全体を苦しくなる方向に向かわせた。
その歪みが、パワーハラスメントという形で現れ、社員、管理職、経営陣、株主まで被害を及ぼすようになった。
そこから脱却するには、自分に優しく、つまり緩くすると同時に、部下への接し方も緩くすればいい。
出来ない部下がいてもいいではないか。
管理職だと「出来ない部下を出来るようにするのがお前の仕事だろう」と言われるかもしれないが、とんてもない。
世の中、どんなにいい指導したところで出来ない人はできないのだ。
戦力としてカウントできないのは、そんな人材を配属させた人事部が責任を取るべきであって、現場が尻拭いする話ではない。
社会全体がもう少し緩くならないと、パワハラ、モラハラは無くならない。
コメント